「平家物語」各場面の原文朗読・現代語訳・解説の音声ファイルを公開しています。
全て無料でダウンロード可能です。
オススメの使い方は→こちらをご参照ください。

2014年03月31日

10分でわかる「平家物語」巻十二「紺掻之沙汰」(平家を滅ぼした源頼朝を文覚が訪れ、亡き父義朝の首を届ける)



↑「平家物語」原文の朗読・現代語訳・解説の音声ファイルです。
再生ボタンをクリックして聴くことができます。(各回10分程度)
右端のDLボタンからダウンロードしてiPodなどに入れて、
繰り返し聴くこともできます。(ページ下に全訳あり。)


同八月廿二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父、故左馬頭義朝のうるはしきかうべとて、高雄の文覚上人頸にかけ、鎌田兵衛が頸をば弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。去治承四年のころ取りいだして奉ッたりけるは、まことの左馬頭のかうべにはあらず、謀反をすすめ奉らんためのはかりことに、そぞろなるふるいかうべを白い布につつんで奉ッたりけるに、謀反をおこし世をうちとッて、一向父の頸と信ぜられけるところへ、又尋出して下りけり。是は年ごろ義朝の不便にして召しつかはれける紺かきの男、年来獄門にかけられて、後世とぶらふ人もなかりし事をかなしんで、時の大理にあひ奉り、申し給はりとりおろして、「兵衛佐殿流人でおはすれども、すゑたのもしき人なり、もし世に出てたづねらるる事もこそあれ」とて、東山円覚寺といふ所にふかうをさめておきたりけるを、文覚聞き出して、かの紺かき男ともにあひ具して下りけるとかや。


けふ既に鎌倉へつくと聞えしかば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。それより色の姿になりて、泣々鎌倉へ入り給ふ。聖をば大床にたて、我身は庭に立ッて、父のかうべを受け取り給ふぞ哀れなる。是を見る大名小名、みな涙をながさずといふ事なし。石巌のさがしきをきりはらッて、新なる道場を造り、父の御為と供養じて、勝長寿院と号せらる。公家にもかやうの事を哀と思食して、故左馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈らる。勅使は左大弁兼忠とぞきこえし。頼朝卿武勇の名誉長ぜるによッて、身をたて家をおこすのみならず、亡父聖霊贈官贈位に及けるこそ目出けれ。

平家物語連続講義のこれまでの内容を物語の展開順にまとめました。
「平家物語連続講義放送リスト」
------------------------------------------------------------------------------------
【アイテム紹介】「平家物語」には当時の様々な官職の名が出てきます。検非違使って何だろう?征夷大将軍って偉いの? そんなことが気になってしまうあなたにはこちらの本がオススメ!大化の改新以前から江戸幕府に至るまで、様々な官職をひとつひとつ丁寧に解説しています。

タイトルor画像↓をクリックすると詳細が表示されます。
新訂 官職要解 (講談社学術文庫 (621))



------------------------------------------------------------------------------------

〈現代語訳〉


鎌倉の二位、源頼朝卿の父である故左馬頭源義朝の本物の首だといって、高雄の文覚上人がそれを首にかけて、鎌田兵衛の首を、自分の弟子の首にかけさせて、鎌倉へと下りなさった。去る治承四年の時に取り出してさしあげたものは、本当の義朝の首ではない、謀反をすすめ申しあげるための計略として、関係のないしゃれこうべを白い布につつんでさしあげたのだが、頼朝が謀反を起こして世の中を我がものにして、いちずに父の首だと信じられていたところへ、改めて文覚は探し出して鎌倉へくだった。これは長年に義朝がかわがって使っていた紺かきの男が、長年義朝の首が獄門にかけられて、来世への弔いをする人も無かったことを悲しんで、その時代の検非違使の別当に対面申し上げて、願い申しあげて、許可を頂き、首を獄門から下ろして、「兵衛佐頼朝殿は、流人でいらっしゃるが、将来が期待できる人だ。もしかして、出世してこの首を探されることもあるのでは」と東山の円覚寺という場所に、深く納めておいたものを、文覚がそれを聞き出して、その紺かきの男とともに、連れ立って鎌倉にくだったとかいうことだ。

今日はもう鎌倉に到着するという噂になったので、源頼朝殿は片瀬河までお迎えにいらっしゃった。ここから喪服姿になって、泣く泣く鎌倉に入りなさった。文覚上人を大床に立たせて、頼朝自身は庭に立って、頼朝が父の首を受け取りなさる様子はしみじみと感慨深い。この様子を見る大名小名は皆、涙を流さないものはいない。岩石がけわしい場所を切り開いて、新たな寺院を造って、亡き父のためにと供養をして、その寺の名を勝長寿院(しょうじょうじゅいん)と名付けられた。朝廷でもこのことをしみじみ感慨深くお思いになって、故左馬頭義朝の墓に内大臣正二位の位を贈られた。朝廷の使いは左大弁兼忠と申した。頼朝卿は武勇の名誉に優れていたことによって、身を立てて、家を再興しただけではなく、亡き父の霊までもが、官位を増すことになったのは素晴らしい。


posted by manabiyah at 08:27| 平家物語過去分 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする