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2016年03月08日

一の谷平家物語を巡る旅(その1〜生田神社・三宮神社)

2016年「一の谷合戦」を巡る旅に行ってきた。

まずは「一の谷合戦」についておさらい。

木曾義仲が京に入ったのに伴って、平家は京を離れて、地方で勢力を立て直す。安徳天皇を連れ、三種の神器とともに、いったん到着した太宰府からも逐われて、結局は四国の屋島に辿り着く。

だが、その木曾義仲も都でうまくいかないままに、結局同じ源氏の義経らの軍勢に討たれ、その間に徐々に勢力を取り戻した平家は、讃岐の屋島から出て、福原に移り、一の谷に要塞を築き、京を再び伺う姿勢を見せる。

源範頼、義経は後白河法皇から、平家に持ち去られたままになっている三種の神器を取り戻すよう命じられ、
源範頼は大手(正面側)の将軍として、義経は搦め手(背後側)の将軍として京を出発し、いよいよ平家との戦いが始まる。結果は平家の大敗北。現在の神戸を中心とし「鵯越の坂落とし」や「敦盛最期」などで有名な合戦だ。


この度そんな「一の谷合戦」を巡る旅を実現させた。
そんなわけで、恒例の旅行記をここに記しておく。

今回はスケジュールの都合で、
水曜日夜に「池袋から夜行バスで神戸三宮方面に向かい」、
金曜日朝に「夜行バスで神戸から東京に帰って来る」という日程。
なかなかハードな日程だが効率は良かった。

2月17日(水)サンシャインの高速バス乗り場から、
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23時30分発の神戸三宮方面行き。
ユタカ交通という会社のバス。

お値段なんと¥3600という安さ。

内容は値段に見合った感じで、
「昔ながらの夜行バス」という感じ。
シートも今時流行りの独立型とかではなくて、
隣のオッサンと肩を触れ合い寄り添いながら眠る感じ。

途中、3度程の休憩を取りつつ、朝7時半頃、神戸三宮へ到着。
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三宮の駅前の「いくたロード」を抜けて、
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地下鉄の三宮駅を過ぎると、すぐに生田神社が見えてくる。

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一の谷の合戦において平家は、東側は生田の森に、
西側は一の谷(現在の神戸市須磨区)に陣を構えた。
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生田神社の中には、今でもその「生田の森」が残っている。
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この生田側を守ったのが平知盛大将軍、平重衡副将軍ら。
こちらを攻めたのが源範頼率いる源氏の大手五万騎。


この後ろに見えるのが生田の森。
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残念ながら午前10時開門だったので、
まだ中には入れなかった。
それでも神社全体が朝の心地よさも相まって、
繁華街の中とは思えない、
気持ちのよい空気で満たされているのを味わうことはできた。

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これは謡曲で有名な「箙(えびら)の梅」。
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_061.html

この「箙の梅」のエピソードは、
平家物語の標準的テキストである覚一本には収録されていない。
ここでは長門本を引用しておく。

>梶原源太かくる時は、はたをささげ母衣をかけ、ひく時は旗を巻き母衣をぬきて、度々入かへ入かへ戦ひけり、武芸道ゆゆしく見えける中に、やさしき事は、片岡なる梅のまだ盛なるを、一枝折て箙にさしぐして、敵の中へかけ入て、戦時もひく時も、梅は風にふかれてさとちりければ、敵も味方も是を見て感じける。


ちなみにこのエピソードは延慶本では「箙の桜」であり、
また「源平盛衰記」では父・梶原景時の話になっていたりもするのだが、
それはさておき。まさにちょうど梅の季節に訪れたお蔭で、
梅が咲いている姿を見ることができたのは嬉しい!
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というわけで記念撮影。

近くに「えびら会館」という建物があった。
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こういうネーミングセンスは地元の人ならでは。
現地でこういうものを見つけるのも旅の楽しみのひとつ。

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三宮の駅近くに「三宮神社」がある。
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こちらでも梅が美しく咲いていた。
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明治維新の際の「神戸事件」の現場としても知られるこの神社に、
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河原太郎・次郎の兄弟を祀った「河原霊社」がある。
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生田の森の戦場で、源氏側の先陣として、真っ先をかけて戦い討ち死にした河原兄弟。
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「平家物語(覚一本)」には河原太郎のセリフがこんなふうに記されている。

「大名は我と手をおろさねども、家人の高名をもッて名誉す。われらはみづから手をおろさずはかなひがたし。」(大名は直接自分の手が手を下さずとも、家来の高名によって名誉を得られる。我々は自ら手を下さずには、名誉を得ることはできない。)

小名と呼ばれる河原兄弟のような、所領も極めて小さく、
家来も少ない者たちは自らの命を賭けて、恩賞を得るしか方法がない。
たった二人で平家の陣に、先陣として乗り込んだ彼らについて、
平家側の大将軍であった知盛はこんな言葉を述べている。

「あッぱれ剛の者かな。これをこそ一人当千の兵ともいふべけれ。あッたら者どもを助けてみで」(ああ、強く勇ましき者であるよ。こういう者こそを一人で千人力の武士というべきだ。殺すには惜しい者を助けられないで。)

ちなみにこの河原兄弟は武蔵国私市党の武士で、
行田市(旧・北埼玉郡南河原村)の出身だった。
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一の谷合戦ではこんなふうに、
東国の武士たちの逸話が多く伝えられている。
posted by manabiyah at 00:48| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする