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2016年03月08日

一の谷平家物語を巡る旅(その1〜生田神社・三宮神社)

2016年「一の谷合戦」を巡る旅に行ってきた。

まずは「一の谷合戦」についておさらい。

木曾義仲が京に入ったのに伴って、平家は京を離れて、地方で勢力を立て直す。安徳天皇を連れ、三種の神器とともに、いったん到着した太宰府からも逐われて、結局は四国の屋島に辿り着く。

だが、その木曾義仲も都でうまくいかないままに、結局同じ源氏の義経らの軍勢に討たれ、その間に徐々に勢力を取り戻した平家は、讃岐の屋島から出て、福原に移り、一の谷に要塞を築き、京を再び伺う姿勢を見せる。

源範頼、義経は後白河法皇から、平家に持ち去られたままになっている三種の神器を取り戻すよう命じられ、
源範頼は大手(正面側)の将軍として、義経は搦め手(背後側)の将軍として京を出発し、いよいよ平家との戦いが始まる。結果は平家の大敗北。現在の神戸を中心とし「鵯越の坂落とし」や「敦盛最期」などで有名な合戦だ。


この度そんな「一の谷合戦」を巡る旅を実現させた。
そんなわけで、恒例の旅行記をここに記しておく。

今回はスケジュールの都合で、
水曜日夜に「池袋から夜行バスで神戸三宮方面に向かい」、
金曜日朝に「夜行バスで神戸から東京に帰って来る」という日程。
なかなかハードな日程だが効率は良かった。

2月17日(水)サンシャインの高速バス乗り場から、
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23時30分発の神戸三宮方面行き。
ユタカ交通という会社のバス。

お値段なんと¥3600という安さ。

内容は値段に見合った感じで、
「昔ながらの夜行バス」という感じ。
シートも今時流行りの独立型とかではなくて、
隣のオッサンと肩を触れ合い寄り添いながら眠る感じ。

途中、3度程の休憩を取りつつ、朝7時半頃、神戸三宮へ到着。
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三宮の駅前の「いくたロード」を抜けて、
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地下鉄の三宮駅を過ぎると、すぐに生田神社が見えてくる。

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一の谷の合戦において平家は、東側は生田の森に、
西側は一の谷(現在の神戸市須磨区)に陣を構えた。
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生田神社の中には、今でもその「生田の森」が残っている。
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この生田側を守ったのが平知盛大将軍、平重衡副将軍ら。
こちらを攻めたのが源範頼率いる源氏の大手五万騎。


この後ろに見えるのが生田の森。
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残念ながら午前10時開門だったので、
まだ中には入れなかった。
それでも神社全体が朝の心地よさも相まって、
繁華街の中とは思えない、
気持ちのよい空気で満たされているのを味わうことはできた。

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これは謡曲で有名な「箙(えびら)の梅」。
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_061.html

この「箙の梅」のエピソードは、
平家物語の標準的テキストである覚一本には収録されていない。
ここでは長門本を引用しておく。

>梶原源太かくる時は、はたをささげ母衣をかけ、ひく時は旗を巻き母衣をぬきて、度々入かへ入かへ戦ひけり、武芸道ゆゆしく見えける中に、やさしき事は、片岡なる梅のまだ盛なるを、一枝折て箙にさしぐして、敵の中へかけ入て、戦時もひく時も、梅は風にふかれてさとちりければ、敵も味方も是を見て感じける。


ちなみにこのエピソードは延慶本では「箙の桜」であり、
また「源平盛衰記」では父・梶原景時の話になっていたりもするのだが、
それはさておき。まさにちょうど梅の季節に訪れたお蔭で、
梅が咲いている姿を見ることができたのは嬉しい!
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というわけで記念撮影。

近くに「えびら会館」という建物があった。
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こういうネーミングセンスは地元の人ならでは。
現地でこういうものを見つけるのも旅の楽しみのひとつ。

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三宮の駅近くに「三宮神社」がある。
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こちらでも梅が美しく咲いていた。
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明治維新の際の「神戸事件」の現場としても知られるこの神社に、
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河原太郎・次郎の兄弟を祀った「河原霊社」がある。
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生田の森の戦場で、源氏側の先陣として、真っ先をかけて戦い討ち死にした河原兄弟。
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「平家物語(覚一本)」には河原太郎のセリフがこんなふうに記されている。

「大名は我と手をおろさねども、家人の高名をもッて名誉す。われらはみづから手をおろさずはかなひがたし。」(大名は直接自分の手が手を下さずとも、家来の高名によって名誉を得られる。我々は自ら手を下さずには、名誉を得ることはできない。)

小名と呼ばれる河原兄弟のような、所領も極めて小さく、
家来も少ない者たちは自らの命を賭けて、恩賞を得るしか方法がない。
たった二人で平家の陣に、先陣として乗り込んだ彼らについて、
平家側の大将軍であった知盛はこんな言葉を述べている。

「あッぱれ剛の者かな。これをこそ一人当千の兵ともいふべけれ。あッたら者どもを助けてみで」(ああ、強く勇ましき者であるよ。こういう者こそを一人で千人力の武士というべきだ。殺すには惜しい者を助けられないで。)

ちなみにこの河原兄弟は武蔵国私市党の武士で、
行田市(旧・北埼玉郡南河原村)の出身だった。
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一の谷合戦ではこんなふうに、
東国の武士たちの逸話が多く伝えられている。
posted by manabiyah at 00:48| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一の谷平家物語を巡る旅(その2〜願成寺・明泉寺・鵯越駅)

さて、三宮から神戸市営地下鉄に乗って、湊川公園駅へ。


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「願成寺」にある平通盛と小宰相の比翼塚を訪れる。
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一の谷の戦いで命を落とした通盛の死が、正妻であった小宰相に伝えらると、
小宰相は通盛の子を身ごもっていながらも、通盛のいないこの世に絶望し、
ついに船の上から海へと身を投げてしまったという悲劇。

そしてその後、さらに神戸電鉄で長田駅へ。
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しばらく歩いて辿り着いたのが「明泉寺」。
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寺の由来が書かれている。
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この「明泉寺合戦」というのが、
あの「鵯越の坂落とし」とも大きく関わるところ。
吉川英治「新・平家物語」ひよどり越えの巻に詳しい。

このお寺の中に、生田の戦いで、
父である新中納言・平知盛(とももり)を助けるために命を落とした、
平知章(ともあきら)の墓がある。
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「平家物語(覚一本)」では、こんなふうに書かれている。

「そのなかの大将とおぼしきもの、新中納言にくみ奉らんと馳せならべけるを、御子武蔵守知章なかにへだたり、おしならべてむずとくんでどうどおち、とッておさへて頸をかき、立ちあがらんとし給ふところに、敵が童おちあうて、武蔵守の頸をうつ。」(その敵の大将と思われるものが、新中納言知盛に組み合いもうしあげようと馬を馳せ並べたが、知盛の子である知章が間に隔たって入り、馬を並べ、むんずと組みあってどんと落ちて、とりおさえて敵の首を切って、知章が立ち上がろうとしなさるところに敵の童がおちあって、武蔵守知章の首を斬った。)
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境内には、そんな平知章を偲ぶ碑が立つ。
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さて、そろそろ東側の生田方面(大手)から、
西側の一の谷の陣(搦め手)へと、移動しなければ。

再び神戸電鉄長田駅に戻る。そこでふと気づく。

長田駅からわずか二駅のところに「鵯越」という駅がある…!
当初予定はしていなかったが、ここは行っておかねば。
というわけで「鵯越駅」到着。
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一の谷合戦といえば、俗にいう「鵯越えの坂落とし」が有名。
義経軍が絶壁を馬でかけおりたというあれだ。

そうなんだけど、この神戸市長田区の鵯越駅付近から、
須磨区の一の谷に駆け下りるというのは、やはり不自然。
そんなわけで、この辺りは諸説あっていろいろと問題のあるところらしい。
実際に自分で現地に来てみると、確かに問題があることはよくわかる。
とりあえず鵯越駅方面はここまでとして、次は一の谷(須磨区)方面に向かう。
posted by manabiyah at 00:56| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一の谷平家物語を巡る旅(その3〜忠度腕塚)

神戸電鉄で湊川に戻って、
地下鉄に乗り換えて「新長田」駅へ。

ここから、一の谷の合戦(須磨方面)で討たれた
平忠度の切り取られた腕を埋めたという、
「腕塚」を訪れてみることにした。
薩摩守・忠度の最期の様子は以下の通り。

「六野太が童、おくればせに馳せ来て、打刀をぬき、薩摩守の、右のかひなを、ひぢのもとよりふつときりおとす。「今はかう」とや思はれけん「しばしのけ、十念となへん」とて六野太をつかうで、弓だけばかり、投げのけられたり。」(岡辺六野太につかえる童が遅れて馳せ参じて、つばのついた長い刀を抜いて、忠度の右のうでを肘のもとからふっと切り落とした。忠度は「もはやこれまで」と思われたのだろうか、「しばらくどいていろ、念仏を十回となえよう」と、六野太をつかんで、弓の長さほど、投げのけられた。)


そのあと、忠度は西に向かって、声をあげて十回念仏をとなえようとしたが、
忠度が言い終わらないうちに猪俣党の岡辺六野太が後ろから寄っていき、
忠度の首を討ったと「平家物語(覚一本)」に書かれている。

で、新長田駅から商店街を抜けて、
腕塚のあるとおぼしき方向に歩いて行くのだが、
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なんだか妙に「三国志」関係のものが目につく。

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おお、これは関羽像!
なぜにこの地域はこんなにも「三国志」推しなのだ??

謎を感じつつも、とりあえず腕塚を目指す。
(ここでiPhone6の充電が切れた。
以降の写真は予備で持っていたiPhone4Sで撮影。)

腕塚はなかなか見つけづらいところにあった。
道路に面しているところには、
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こんな案内図があって、

ここから民家のある狭い路地に侵入して、
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ようやく腕塚に辿り着いた。
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さて、ここからまた新長田駅に歩いて戻るうちに、
「三国志」推しの謎が徐々に解明されてきた。

神戸市は漫画「三国志」で知られる横山光輝の出身地。
さらにこの新長田は「三国志」を使っての、
町おこしに取り組んでいるとか。

こんな施設もあった!
「KOBE三国志ガーデン」
http://www.3594garden.com/

こ、これは…!!行ってみなければ。

というわけで訪れてみると、
営業は12時半からということで、
まだオープン前だった。

時計を見ると11時45分頃。
うーむ。どうしようか。

食事でもとりながらオープンを待つという手もあるけど、
この旅のテーマは「平家物語を巡る旅」。
まずは一の谷合戦場巡りを優先すべきだよなあ。

この三国志ガーデンの営業時間は17時半までということなので、
もし時間があったら再び戻ってくることにして、
とりあえずは須磨方面に出発することにした。

でもその前に三国志ガーデンの外側にある、
粋な無料スペース「三国志庭園」へ。
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三国志演義第1回に登場する「義勇軍募集立て札」に、
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誓いのできる「桃園」!

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孔明わんよ、また会えたら会おうぜ。
(ワンコの礼。)

というわけで駅に戻る。

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おお、鉄人28号もあったのか!
posted by manabiyah at 08:50| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一の谷平家物語を巡る旅(その4〜須磨寺)

さて、山陽電鉄に乗り換えて、須磨寺駅を目指すも、
電車を乗り損ねて須磨駅についてしまった…。
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一駅戻って、改めて須磨寺駅に到着。
駅前には「平重衡とらわれの松跡」の碑があった。
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「三位中将、馬の三頭をのぶかに射させて、弱るところに、後藤兵衛盛長、我が馬、めされなんずとや思ひけん、鞭をあげてぞ落ち行きける。」
(重衡は馬の後ろ足を深々と射られて、弱ったところ、乳母子の盛長は、自分の馬をとられるだろうと思ったのだろうか、鞭をあてて逃げていってしまった。)


乳母子の裏切りにあって捕えられた重衡。
最終的には、かつて自ら炎上させてしまった奈良に送られて斬られてしまうこととなる。

駅から少し歩くと「須磨寺」が見えてくる。
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正岡子規の句碑。
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平敦盛と熊谷次郎直実の像。
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言わずと知れた「敦盛最期」の場面。
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熊谷「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と、扇をあげてまねきければ、招かれてとッてかへす。(熊谷は言った「そこにおられるのは大将軍と見申し上げます。卑怯なことに、敵にうしろを見せなさるものだなあ。お戻りくだされ」と扇あげてまねいたところ、その者はとって返してきた。)

この後熊谷は我が子ほど歳の若い敦盛を泣く泣く自分の手にかけることとなる。
亡くなったのは、平経盛の子で、敦盛といって十七歳になるものだった。
それ以来、熊谷の出家への思いは進む。

そんな敦盛と僕。
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こちらは敦盛御首洗池。

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そして源義経御腰掛松。
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義経はこの松に腰をかけて、敦盛の首を確かめたとのこと。

亡くなった敦盛のもっていた笛の名は小枝(さえだ)。
祖父平忠盛が笛の名手で、鳥羽院からいただいたものだった。
経盛が相続したものを、敦盛に笛の才能があったことにより、
譲られたものであるが、これは通称「青葉の笛」という名で知られている。

その青葉の笛の碑。
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唱歌としても有名だ。
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そして敦盛の首塚。
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こんなふうに敦盛に関するものがたくさんこの須磨寺にはある。

人形の展示もしていた。
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この宝物殿の中に青葉の笛もある。

こちらは弁慶が一の谷合戦の際に、
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長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたとされる弁慶の鐘。

須磨寺から駅の方に戻る。

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駅の近くには源頼政ゆかりの「頼政薬師寺」もあった!

さていよいよここから坂落としの現場へ。
posted by manabiyah at 09:02| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一の谷平家物語を巡る旅(その5〜須磨浦公園)

山陽電鉄に乗って、

今度は「須磨浦公園駅」へ。
この須磨寺から須磨浦公園辺りが、
一の谷合戦の搦め手の戦場となっていたとされる。

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目の前には須磨の浦。

駅から徒歩3分くらいのところに敦盛塚がある。
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この隣にある「敦盛そば」は結構有名で、
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僕も是非とも食べてみたいと思っていたのだが…。

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なんと休業とのこと。うむ残念。

こちらが敦盛塚。
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敦盛を供養しようと室町末期から桃山時代に作られたとのこと。
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さて、そろそろ昼食にしたいのだが、
敦盛そばが休業中だったので他の店を探して、
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とりあえず海に沿って走る道路をしばらく歩いてみる。
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で、結局、敦盛塚のすぐ近くにあったガストで食べることにした。
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前夜も夜行バスに乗る前に池袋のガストで食べているのだが、まあいいや。
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牛チゲうどんのサラダ付きセット。
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お安く済ませることができたのでよしとしよう。


さて、改めて古戦場巡り。
例の「鵯越えの坂落とし」問題だ。
平家物語長門本には、義経軍が坂落としをする直前に、
こんな記載がある。

>九郎義経一の谷の上、鉢伏と蟻のとと云ふ所へ打上りて見れば、軍は真盛りと見えたり、下を見おろせば、或は十町ばかりの谷もあり、或は廿町ばかりの岩もあり、人も馬も通ふべき様もなし。

これと近い記述が平家物語の諸本に見られることから、
義経がいわゆる坂落としをした場所として有力視されているのが、
この須磨浦公園駅の背後にある鉢伏山なのだ。

そして、この鉢伏山にはロープウェイで
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のぼることができる。

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ロープウェイからの光景。
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下を見下ろす。
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義経陣営の武者達はこんな景色を馬上から見たのだろうか。
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地形がよくわかる。

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前に海、背後に山となっていて、
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確かに平家が陣を構えるには相応しい場所だ。

ロープウェイよりさらに上には、
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カーレーターというリフトのようなものでのぼることができる。
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須磨浦展望閣という建物。
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回転展望台では床がゆっくり回って周囲を眺めながら食事をしたりできる。
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建物全体が昭和な雰囲気を残していてなんだか懐かしい。
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1Fにはジュークボックスがあった。
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収録曲は僕の小中学生だった頃のもののようだ。
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色あせたレコードジャケットが並ぶ。

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外には清盛と二位の尼の顔はめが。


そうここが鉢伏山。
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周辺を歩き回ってみる。

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義経軍の一員の気分を味わう。

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さて、本当にここから坂落としが行われたのか?
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歴史の謎は謎のまま。
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少なくとも義経の下で働くのは僕はやっぱりいやだな。

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ここでも梅が美しく咲いていた。

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ロープウェイで下山。
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須磨浦公園駅を挟んで敦盛塚と反対側の位置には「戦いの濱」の碑もある。
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で、この写真を取ったところで、

とうとう予備のiPhone4Sも充電切れ。

しまった!ここに来てカメラ無しか!
とりあえず、幸いに須磨浦公園付近については、
見るべきものは見た(by 知盛)。

ちょうど時間は16時頃。
今からならまだ「三国志ガーデン」に行けそうだ!
というわけで、再び電車で新長田に戻ることにした。
posted by manabiyah at 09:18| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一の谷平家物語を巡る旅(その6〜三国志ガーデン・清盛像・琵琶塚)

新長田に無事到着し、16時40分頃、
三国志ガーデンに入館。
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なかなか良かった!
横山光輝の漫画の他にも、
小説や映画、ゲームなど三国志を元ネタにした様々なものがカバーされていて、
三国志の人気と影響の大きさを実感することができた。
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名場面の再現ジオラマなどもあった。
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こんな塗り絵も。


出口付近の三国志クイズをやってたら、
「17時半で閉館です。」と言われて退館。

さて、これから帰りの夜行バスの出発時間(22時15分)まで、どうしようか。
どこかにいくにせよ、2台のiPhoneがともに充電切れで、
カメラが無い状態なのはよろしくない。

そんなわけで非常手段。
新長田のケーズデンキで「写ルンです」を買う。
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うーむ。こんなものを買うのは久しぶり。
これまた懐かしい。まだ売ってて良かった。

というわけでこれ以降の写真は「写ルンです」での撮影。

さて、一の谷合戦関係の行くべきところには行ったのだが、
忘れてはならない。神戸は清盛が港を築き、都を移した「福原」の地だ。
出発までの残り時間を使って清盛関係の史跡を巡ってみることにした。

新長田から地下鉄海岸線に乗って、

中央市場で降りた。
ここから清盛の墓があるという能福寺を目指す。
だが、iPhoneが使えないのは、なかなかつらい。
特にこういう旅先ではマップのアプリが重宝するので、
多用してしまうのだけど、それがゆえにバッテリー切れしたのかも。

それでも何とか彷徨いながらようやく能福寺に到着。
もうだいぶ遅い時間になっていて寺の中に入ることはできなかったが、
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「将軍平清盛公墓所」の文字を確認することはできた。

そしてここから少し歩いたところに清盛塚&清盛像、琵琶塚がある。
これは道路に面したところに立っているので、夜でも見ることができる。

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清盛像と琵琶塚はなんとか写真残すことができたが、

清盛塚はうまく撮れなかった。まあ仕方ない。

時間は気がつくと19時頃。そろそろ帰りを意識しなければ。
posted by manabiyah at 09:25| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一の谷平家物語を巡る旅(その7〜帰途)

電車を乗り継いで夜行バスの出る三宮駅付近に戻り、
まずは、バスの待ち合い室の位置を確認。

それから食事。
高架下の家族亭という店でカツ丼のセットを食べた。
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その際にサンプルとして出してくれた干し梅が、
なかなか美味しかったので、土産用に購入。

そういえば今回の旅は「箙の梅」に始まって、
至るところで梅に縁があった。

そして夜行バスに乗るその前にネットカフェへ。

あえてのTHE貧乏旅行に相応しく、ここでシャワーを浴びる。
昔に比べて、こういうところでシャワーが使えるようになったのはとても便利。

バス会社は行きと同じくユタカ交通だが、
帰りのバスはさらに激安で、なんと2700円!

激安には当然理由があって行きにもまして窮屈なシート。
安い以外に何の取り柄も無いというわかりやすい環境。

とはいえ往復で「3600+2700」=6300円という交通費で、
この充実の旅を実現できたことは意義深い。

そうなんだが…、
やっぱり狭いシートは足や腰には負担が大きい。

当然座席は今時流行りの独立型などではなく、
となりの兄ちゃんと肩をふれあって寝る、昔ながらの夜行バス。

行きと同じく途中三度ほどトイレ休憩があったんだけど、
サービスエリアで歩きだして、びっくり!

足腰がしびれて痛くて辛い。
まともに歩けないほどの状態。
休憩の度に真夜中のサービスエリアのベンチに座って、
ストレッチをやってなんとか回復させる。

うーむ。

これはさすがに普通の40代にはキツイ環境だなあ。
まあ、幸い日々トレーニングをして、
身体の柔軟性は保っているからなんとかなるけど、
身体がすっかり硬くなっているおっさんなら、
泣きが入るレベルだと思う。

そんな過酷な座席環境の夜行バスの中ではあったが、
さすがに体もそれなりに疲れていたので割とよく眠った感はあった。

気がつけば、池袋(サンシャイン)に到着。
まだ7時前。痛みと痺れの残る足腰で池袋駅まで歩く。
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ここでこの旅は終わり…となるはずだったのだが。
実は、もうひとつ、この後に記事が続くこととなった。
posted by manabiyah at 09:28| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一の谷平家物語を巡る旅(完〜埼玉へ)

さて、充実の神戸取材旅行からしばらく経ってから、
実は一の谷合戦を巡る旅の仕上げとして、
埼玉県内の史跡を巡ってきた。

そう、「一の谷合戦」の一つの特徴として、
東国武士の活躍ぶりが目立つということがあげられる。
例えば生田側の先陣を務めた河原兄弟は埼玉県行田市(旧・北埼玉郡南河原村)の出身。

孝子平知章を失いながら、海へと逃れた平知盛の乗り捨てた馬を捕えて、
後白河院に献上した河越小太郎重房はその名の通り「川越」の出身。
地名の川越はこの「河越氏」からきていると言われる。

特に、平忠度を討った岡部六野太忠純と、
敦盛を討った熊谷次郎直実は印象深い。
この二人も、武蔵国(現埼玉県)の武士だった。

やはりここは埼玉も探訪しなければ!

というわけで最後は埼玉編。

岡部六野太忠純の墓があるのは、
その名の通り「岡部」。
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JR高崎線「岡部駅」で下車。

駅前には岡部六野太忠純についての解説図や、
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岡部六野太忠純の墓のある場所の地図もある。
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岡部駅から徒歩で15分から20分ほど。
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近くには江戸時代の道標が残されている。
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普済寺。
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この境内に岡部六野太忠純が討った平忠度の歌の碑もある。
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普済寺の周囲はこんな感じ。
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この道路の右側が普済寺。
左側の緑のフェンスに囲まれたところに、
岡部六野太忠純の墓がある。
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六野太の墓石を粉を煎じて飲むと、
乳の出ない女性も乳がでるようになるという、
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言い伝えがあったとか。
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錆びた扉のむこうに見えるのが六野太の墓だ。
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石が削れているのがわかる。

平家物語ではえげつない東国武士として、
容赦なく忠度を討ち取る六野太だが、
地元ではまた違った顔を見ることができる気がする。

六野太は忠度を自分の領地にある一番景色の良いところに葬ったという。

その六野太が作ったという忠度の墓は、
「岡部駅」から一駅の「深谷駅」から、
徒歩15分ほどのところにある。

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深谷に到着。

唐沢川に沿って歩いていくと。
「忠度橋」という橋がある。
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三歩くらいで終わる短い橋。

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そこからすぐ近くにあるのが清心寺。

境内には忠度桜と書かれた桜も。
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「行き暮れて〜」の歌でも桜が歌われていて、
桜とは縁の深い忠度だが、

この忠度桜や墓の由来についてはこんなふうに書かれている。
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一説にはここに忠度の遺髪が埋められたとか。
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ここ清心寺にも忠度の腕塚がある。
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神戸にも埼玉にも腕塚ありということは、
もしかして分割されたとか…。

さて、続いてJR高崎線に乗って「熊谷」へ。
熊谷次郎直実は武蔵国大里郡熊谷郷(現熊谷市)の武士だった。

熊谷の駅前には扇を掲げて敦盛を呼び止める熊谷の像がある。
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後ろからは土肥でも梶原でもなく、
コバトンが迫ってきている…。
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近距離で撮影。
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ちなみにこの像は北村西望という方の作。
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あの「長崎平和祈念像」を作った方の作。

で、ふと気になった。
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あの神戸の須磨寺にも似たような構図の像があったが、
あれも北村西望さんのものか??

現地で聞ければ良かったのだが、
どうしても気になったので、
須磨寺に直接電話をかけて尋ねてみた。

結果として判ったこと。
須磨寺の熊谷像の作者は当時の資料が残っていないため不明。
おそらく著名な人のものではないだろうとのこと。
ちなみに熊谷駅前のものは1974年の作。
須磨寺のものは1967年に完成の後、2001年に改修とのこと。
一応、須磨寺にあるものの方が年代的には古い。

なお、須磨寺には、
埼玉バージョンの熊谷像のレプリカも、
展示されているとの情報を頂いた。

須磨寺の境内北側に無料駐車場があり、
エレベーターを使わずに階段を使うと、
階段沿いに展示がされているとのこと。

僕自身は神戸取材から帰って来てから知ったので、
今度、須磨に行く機会があれば是非見てみたいと思う。

さて熊谷駅から徒歩15分ほど歩いたところに、
熊谷寺(ゆうこくじ)がある。
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若き平家公達敦盛を討った後、熊谷は出家。
(ただし「吾妻鏡」の記述によれば、叔父との所領を巡る訴訟がきっかけ。)
出家の後は、上京して法然上人の弟子となり、蓮生(れんせい)と名乗る。
「吾妻鏡」では京都東山で亡くなったとするが、
埼玉県熊谷の地で亡くなったとも言われている。
この「熊谷寺(ゆうこくじ)」は晩年、熊谷の地に戻った蓮生が、
念仏を唱えるために建てた草庵がもととなっていると言われる。
また境内には熊谷直実の墓があるはずなのだが、
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一般公開は基本的にしていないようだ。
http://www.yukokuji.com/

そんな熊谷寺から熊谷駅へと歩いている帰途。
路上のベンチで休憩していたら…。
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バスの名が…。
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おお、直実号!!!
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熊谷直実が今も地元で根強く愛されていることがわかった。

神戸そして埼玉の地を探訪した「一の谷平家物語を巡る旅」。

ここで取材した内容は2016年3月7日に川越で催された市民講座、
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「平家物語の中の埼玉を読む」でも語らせてもらった。
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ちなみに神戸で買った干し梅は講義参加の皆さんへのお土産にした。
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取材の甲斐あって充実した講座になったのではないかと思う。
2015年に練馬で連続講義の形で開催した
http://manabiyah.seesaa.net/article/420456491.html
「みんなで読む平家物語名場面」に続いて楽しい企画となった。

ラジオでの講義とともに、
一般市民の皆様を対象とした講座も、
またあれこれやっていけたらと思う。

講義依頼などございましたら下記までご連絡ください。

manabiyah@bit.isao.net
posted by manabiyah at 09:46| 平家物語を巡る旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月31日

宇治〜「平家物語」と「源氏物語」宇治十帖を巡る旅1(宇治川と宇治橋)

2017年8月30日、渋谷での夏期講習最終日を終えて、そのまま新宿バスタへ。

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そうここから僕は夜行バスで京都宇治方面へと向かったのだ。

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D11乗り場、今回使ったのはJAMJAMライナーというバス。

3列独立シート。2016年に神戸に行った時は4列シートだったので、少しグレードアップ。ちなみに値段は5,000円。

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22:10発、途中で数度休憩を入れつつ翌31日の6:20には到着。

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京都八条口に着いた。

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「なか卯」があった!

ここから激しくカロリー消費の予定なので、
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とりあえず朝食を摂って栄養補給。

JR奈良線に乗る。
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宇治駅へ到着。
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駅前の案内地図。
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宇治川に到着!
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こちらは「平家物語」巻四〈橋合戦〉や巻九〈宇治川先陣〉でお馴染みの所。

10分でわかる「平家物語」巻四〈橋合戦〉(平家を相手に戦う以仁王陣営)
http://manabiyah.seesaa.net/article/382137540.html

10分でわかる「平家物語」巻九〈宇治川先陣〉(宇治川の先陣争いの様子)
http://manabiyah.seesaa.net/article/305437643.html

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そしてこの宇治橋の西詰には紫式部の像が。
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実は今回の旅は「源氏物語」宇治十帖を巡る旅でもあるのだ。(続く)

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宇治〜「平家物語」と「源氏物語」宇治十帖を巡る旅2(宇治十帖古蹟〈夢浮橋〉〈橋姫〉)

宇治といえば「平家物語」では合戦の地としてのイメージが強い。
一方で「源氏物語」ファンには光源氏亡き後の物語「宇治十帖」の舞台としてお馴染みだ。

そんな宇治十帖ゆかりの遺跡が宇治には存在する。
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それが「宇治十帖古蹟」だ。
http://www.uji-genji.jp/genji/spot/
>千年の間、人々に愛されてきた 『 源氏物語 』 はフィクションであるにもかかわらず、その古蹟が宇治に点在しています。
>江戸時代、好事家(こうずか=風流な事柄を好む人)たちによって、物語最後の十帖にちなんだ古蹟が各々定められたのです。

今回は平家遺跡のみならず、この「宇治十帖古蹟」をすべて巡ってみるという計画を立ててきた。

夜行バスで到着するメリットは朝早くから活動できること。充分時間的にはいけるはずだ!

まずは〈夢浮橋〉から。
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宇治橋のたもとにあるのは、橋からの連想か。
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続いて平等院方面に少し移動して〈橋姫〉古蹟へ。
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こちらが橋姫神社。
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ここに祀られている「宇治の橋姫」は宇治橋を守るという女神で、住吉の神が毎夜この神のもとに通ったと言われる。

「源氏物語」〈橋姫〉では薫が大君をこの橋姫になぞらえて「橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞぬれぬる」と詠んでいる。

実はこの橋姫の伝説は中世になって発展して「嫉妬深さゆえに鬼女となった女性」という形になるのだが、それが「平家物語」の諸本の一部で〈剣の巻〉に引用されている。

ここに百二十句本の記述を引用する。

>嵯峨の天皇の御宇、ある女、あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、「願はくは鬼となり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申しける。神は正直なれば、示現あらたなり。やがて都に帰り、丈なる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹をぬる。頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝を消し、やがて鬼とぞなりにける。「宇治の橋姫」とはこれなり。

また「平家物語」巻五〈月見〉でも「源氏物語」〈橋姫〉の記述が引用されている。

「平家物語」覚一本の記述を見てみよう。

>源氏の宇治の巻には、うばそくの宮の御むすめ、秋の名残を惜しみ、琵琶をしらべて夜もすがら心をすまし給ひしに、在明の月の出でけるを、猶たへずやおぼしけん、撥にてまねき給ひけんも、いまこそ思ひ知られけれ。

こちらは下記の「源氏物語」〈橋姫〉がもととなっている。

>内なる人一人、柱に少し居隠れて、琵琶を前に置きて、ばちを手まさぐりにしつつ居たるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに匂ひやかなるべし。

さて、ここから再び宇治川へ。

この宇治川は「平家物語」では梶原源太景季と佐々木四郎高綱の先陣争いで有名なのだが、宇治川の中の島にはそれを記念した碑があるとのこと。

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中の島へはこんな橋を渡っていくことができる。

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だが、なんと。工事中のために宇治川先陣の碑は非公開となってた。

うむむ残念。まあでもこれはこれで貴重な記録ということで。

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さてさらにこんな橋(朝霧橋)を渡って反対側の岸を目指していく。
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橋の上からの光景。(続く)

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